善光寺と善光寺如来について
今を去る2500年も前、お釈迦様がインドビシャリ国の大林精舎においでのころ、その国一番の大金持ちといわれた月蓋という長者がおりました。金銀財宝を山のように持っていながら、欲が深く、施しの心がまったくありませんでしたのでお釈迦様が哀れんで、この欲心を改めさせようと、弟子を使いにやっても食べ物を施しませんでした。
 この長者にはかわいがっている如是姫という一人娘がおりました。それはとても愛らしい女の子で、声は鳥の声のようだったそうです。ところがその頃、ビシャリ国では、熱病が流行り、大勢の人々が死んでいきました。長者は自分の屋敷だけにはその病気を入れないように、厳重に注意していたのですが、召使や家来の中にも病気にかかるものもでき、ついには如是姫も熱病にとりつかれてしまったのです。国一番のギバ大臣という名医に診てもらっても治りません。山のような財宝も姫を救う役にはたたず、困り果ててしまいました。
 長者の周りの親戚の長者たちも「今はもうお釈迦様のお力にすがる他はない」と進めましたので、長者は、以前にお釈迦様や、その弟子が見えたときにとった自分の態度を思い出し、ためらっておりましたが、姫の苦しみに、ついに決心をしてお釈迦様の元へおまいりに出かけました。
 お釈迦様は「おまえはやっと信心の心をおこした。姫を助けるには西方の阿弥陀如来様がおいでになり、その左右に観世音菩薩、勢至菩薩という二方のお弟子がついておられる。この仏様のご利益は無限だから、今から西方に向かって罪を悔い改め、三尊のお名前を一心に唱えなさい。」とおっしゃいました。長者は大喜びでその通りにすると、一光三尊の阿弥陀如来の姿が西の門に現れ、大光明を放たれました。するとたちまち如是姫の病気ばかりか、国中の病人がすべて治ってしまったのです。
 地用じゃは、みなとともに感謝の涙を流し、信仰の思いを深く心に刻み、このありがたい如来様のお姿を写してこの世に残し、毎日礼拝したいと再びお釈迦様にお願いに行きました。お釈迦様はよい心がけだとほめ、神通力のある目蓮尊者を竜宮へ使わして、えんぶだごんという黄金を取り寄せて長者に授けました。
 長者はこのえんぶだごんを玉の鉢に盛って、現れた三尊如来様とお釈迦様の光が当たると、たちまちそのえんぶだごんが一光三尊の如来様の姿になりました。
 如来様はその後五百年ほどインドにおいでになりました。その頃インドで長者だった月蓋がその善根によって朝鮮の百済の聖明王として生まれ変わったのです。すると如来様は、空中を飛んでたちまち百済の皇居に入られました。百済には六百年ほどおいでになったのですが、お告げをされて、
「東の海を渡った日本という国へ因縁があるので移しなさい。」とおおせがあり、舟でお送り申し上げました。
 その頃の日本は欽明天皇の御世で都では蘇我氏と物部氏の二人が争っておりました。蘇我氏は仏教を受け入れたほうが良い、物部氏は、わが国は神の国であるから仏教を受け入れるとたたりがあると、互いに反対の立場をとっておりました。天皇は如来様を蘇我氏に賜りましたので、蘇我氏は大変喜んで、向原に寺を立て如来様を毎日供養しておりました。
 ところが悪い美容気がはやり始め、多くの人が四似ました。物部氏は「これは外国からきた仏様を拝むから、神様の罰が当たったのでは」と天皇に申し上げ、軍隊を率いて向原寺を焼き払ってしまい、仏像は水中に沈めました。
 その後世間には悪いことが続き、物部氏一族は不思議な死に方をしました。天皇は向原寺を焼かせたことを悔い、再びお寺を建てられて、如来様を祀りました。
 欽明天皇の次は敏達天皇が位につきました。そのとき、疱瘡がはやりました。物部尾興の子守屋は、「病気はすべて仏像のせいだ」として又もやお寺を焼き打ちし、三尊の如来様を火の中で溶かそうとしても溶けませんでしたので、また難波の堀に投げ込んでしまったのです。
 蘇我稲目の子、馬子は仏教を信仰し、使用説く大使とともに森屋を攻め滅ぼしてしまいました。聖徳太子はその後、四天王寺を立て、十七条憲法をおつくりになって仏法が盛んになる礎を築かれたのです。
 第二十三代推古天皇の御世に、信濃国伊那郡麻績の里(現在の飯田市座光寺)に本多善光という人が住んでおりました。国司のお供をして都へ上り、その用事も無事済みましたので、方々見学しながら、難波の堀江を通りかかりますと、水の中から「善光」「善光」と呼ぶ声がして、水底から光が輝いたので、見ると仏様が現れました。そこで如来様は善光に向かって、「私はおまえを長年待っていた」と、昔インドで月蓋長者だったのが、善根によって百済の聖明王に生まれ、今日本に生まれて善光と名乗っているのが如来様とは因縁で結ばれているのだと説き明かし、自分を善光の生まれ故郷へつれて帰るように説き聞かせたのです。善光公はこの如来様のお言葉を聞いて感激し、一心に拝み、如来様を背に負って、信濃に帰りました。善光公の住居は今の飯田市座光寺にありましたが如来様をお祀りするにはどこが良いのだろうと考えた挙句、米をつく臼のうえが一番清浄な場所だということを思いつき、臼を清めて如来様を安置いたしました。
 四十一年間親子三人で朝夕礼拝し、心の及ぶ限りの供養をしておりました。そうしているうちに如来様のご利益が世間に有名になり、いつまでも家族と同じ家の中では畏れ多いと、村中の人々に声をかけて粗末なお堂をたて、そこへ移されました。世が明けて拝もうとすると、如来様のお姿がない。善光公の家の元の臼の上におられた。そんな同じことが三度続くと、如来様が善光公におっしゃいました。「どんな立派なお堂を建ててくれても、私の名を唱える声のない所には住んでも意味がない。私は常に西方に住むのだ。いつも西に向かって礼拝せよ。」
 善光公は感激の涙を流し、如来様を西の部屋の臼の上に安置しました。
 皇極天皇の御世(642年)如来様は「水内郡芋井の里に移せ」とお告げになり、善光公は如来様を今の長野市へお移ししました。
 ところがその翌年、善光公の長男善祐が亡くなってしまったのです。善光公夫妻は大いに嘆き悲しんで、如来様にもこんなことなら、自分も一緒に死にたいとお願いをしました。
 如来様は月蓋長者から、聖明王、善光公と生まれ変わった因縁の尊さと、善光公の心情を哀れんで、地獄の閻魔大王に命令して、善祐を生き返らせることにしました。
 生き返る途中の善祐が行き会ったのが、今死んでこれから地獄へ連れて行かれる女性だったのです。善祐は全身を起こして、自分よりこの女性を生き返らせてやってくださいと、如来様にお願いしたところ、如来様はその慈悲の心をほめて、善祐とその女性を二人とも生き返らせてくれました。その女性が実は時の女帝、皇極天皇だったのです。生き返った皇極天皇は、信濃の国に勅使をつかわせて、善光公親子を都に召し、その願いによって、信濃の国と甲斐の国を与え、如来様のお堂も勅命によって立派に造営されました。
 そしてこのお堂に善光公の名をもって善光寺と名付けられたのです。
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