近江 新善光寺の寺歴
開山
 今から約800年前、源平の乱(治承の内乱)の後、平清盛の長子、小松内府重盛の一族で、小松左衛門尉宗定という人が、この地に逃れ住みました。小松左衛門尉宗定は、当地の名をとって、高野宗定と称されました。 宗定公は、平家一門の菩提を弔うため、信州善光寺へ48度の参詣を発願されたのです。
 当時は、現在のように道路も整備されおらず、歩いての栗東から信州善光寺への旅は相当に険しく、苦しい旅であったに違いありません。
 その後宗定公は、12年を経て、この願を成就されたのですが、その満願の日の未明の頃に、不思議なことに信州善光寺如来様より、夢の中でお告げを賜ったのです。その内容は、宗定公の余りある篤信に、善光寺如来様は深く御慈悲をたれ賜り、「江洲(滋賀県)一円の衆生済度のため、我(善光寺如来の御分身)を連れ帰れ」という霊告をおさずけになられたのです。
 宗定公はこの霊告(おつげ)を深く慶び、夢より覚めると、御分身如来が、宗定公の眼前におたちになっていたのです。
 宗定公は深く慶び、御分身如来をいただき、現在のこの地に請来されたのです。
 時に建長5年(1253年・鎌倉中期)1月13日のことでした。また、当時は如来堂と号していました。
中興の祖
 寛文元年(1661年)になると、膳所城主本多俊次候は、あらたかな善光寺如来に深く帰依(きえ)され、三間四面の本堂を寄進され、略縁起(りゃくえんぎ)を著され、奉納されました。また、「新善光寺」の寺号も本多俊次候から賜ったものです。その後、俊次候のおかげで県下一円に当寺の名が広まり、多くの信者が集まる所となり、地方屈指の名刹となったのです。なかでも、1月13日御判日(ごはんび)、春秋のおひがん、8月のおせがきは、多くの参詣者がおまいりされました。
有栖川宮家御帰依(ありすがわのみや ごきえ)
 明治元年、有栖川宮殿下の三回忌に当たり、宮家より追善のため御尊牌(おいはい)が奉安されました。この際、宮家から御幕と提灯(ちょうちん)の寄進と、各種証文を賜りました。
衰退と再興
 昭和のはじめ頃までは「西の善光寺」といわれ、大変栄えていましたが、自動車、テレビ等の文明の利器の発展とともに、時代の波に流されて徐々に訪れる信者や檀家も少なくなり、衰退していきました。
 昭和44年に前住職が急逝したため、現住職が24歳で住職を引き継ぎました。
引き継いだ当時は、本堂や諸堂が相当に傷んでおり、大修繕の必要性を感じておりましたが、町の教育委員会と兼務のためなかなか思うようには進められませんでした。
 昭和54年、本堂の大修繕に着手いたしました。このときは、檀家総代の決定まで20回以上の会合を費やし、住職の「修繕できないのなら、本堂の梁に首をくくって死ぬ」とまでの決意に、檀家の心が動き、約1年9ヶ月をかけ、1億数千万円の巨費を投入して見事昔日の威容を取り戻したのです。
 その後、本道の修復とともに教育委員会を退職して、寺務に専念。開山堂の全面建替え、仏使の牛建立、庫裏修理等を経て、平成6年には山門の平成大修理に着手。平成9年にはこれも無事に完成し、平成11年には、「案楽園」も完成。今日にいたっています。
国指定重要文化財
 当寺は本堂御本尊-光三尊善光寺如来のほか、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)作の本造阿弥陀如来を御内仏に安置しています。これは国指定重要文化財であり、南北朝時代の秀作である。


現在の新善光寺は栗東八景という名勝地にも選ばれています。

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